
紅花といえば、“日本料理とは何ぞや?”といった時代に、鉄板焼にエンターテインメントを合体させた斬新なアイデアで話題をさらい、ニューヨーク中にそして世界中に日本料理を浸透させた金字塔。第一号店のオープンから42年が経った今、その店舗数は世界中に100を越える。
そのオーナーであるロッキー青木という人物が、世界を股に掛ける実業家だということは言うまでもないが、彼を知れば知るほど、男のロマンを追求し続ける偉大なチャレンジャーでもあることがわかる。
すべてはアイスクリーム屋から始まった。
ここに一つの逸話がある。日本選抜チームのレスリング選手としてアメリカ遠征を果たした彼が、再びニューヨークの土を踏んだのは1960年。学業とレスリングに打ち込みながら、いつかレストランを開きたいという野望を持っていた。その資金稼ぎの為に学生に許された週20時間の労働許可を取り、ハーレムで移動式のアイスクリーム屋をスタート。そこで彼は、たったの3ヵ月でなんと1万ドル近くの大金を稼いでしまう。
「ただのアイスじゃ何の変哲もないので、日本の音楽を流したり小さな番傘をアイスに付けたりしたのですが、それが大当たりしたようです。全米選手権を獲得したレスリングをあのまま続けていたらコーチになっていたかもしれないし、アイスクリーム屋を続けていたらキング・オブ・アイスクリームになっていたかもしれないけど(笑)、僕はやっぱり日本のレストランを開きたかった」。
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| その資金を元に、ついに長年の夢だった紅花1号店をオープン。今では信じられない話だが、始めの半年は全く業績が振るわず資金は底を尽いていったとか。そんな状況を見兼ね、助け舟を出したのは家族。母親はアルバイトで彼に送金。父親や兄弟も日本からやって来てレストランを手伝った。
「ふと親父が“お客の前でショーをやってはどうか?”と言うのです。そのアイデアを元に、
“クッキング・ダンス”というショースタイルの料理法を思いつきました」。
その斬新な発想は見事に的中! パブリシティがパブリシティを呼び、ニューヨークはもとより全米のメディアがこぞって紅花を紹介した。テーブル数を倍にしても追いつかなくなり、瞬く間に行列が絶えない繁栄店に。続いて3ブロック先に2号店をオープン。シカゴで大繁盛し始めた頃には、ビジネスを全米に広げられる確信が持てたという。
「途中で諦めそうになったことは何度もあるけれど、何とか這い上がってこられたのは、レスリングで培ったチャレンジ精神と、たいへんな時代に僕を支えてくれた家族愛のお陰だと思っています」。 |
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40年以上に亘って愛され続けているワケ ニューヨークはレストランの入れ替わりが激しく、寿命は平均2年といわれている。そんな場所で40年以上もビジネスを安定させている、その成功の秘訣は一体何なのだろうか。
「ステーキがお客さんのところに飛んで、洗濯代をお支払いしたこともありますが(苦笑)、やはりショーマンシップでお客さんに喜んでいただけたということと、それが新鮮であり続けたことではないかと思います。あるときイギリス店では、二人の王子が生前のダイアナ妃を連れて来てくださり話題になりました。このように子供は親を連れて来ますから、子供が満足する工夫も大切です。うちはオケージョン(行事用)レストランとしてもよく使われるので、誕生日や記念日を盛り上げるアイデアも欠かせません」。
そして独自のPR方法も、特筆すべき点だ。元々彼は車が趣味で、それをうまく紅花のPRに取り込んでいる。例えばF1レースのスポンサーになり車体に紅花のロゴを入れたり、また気球ショーでも何度となく自分の顔をバルーン全体にデザインして話題になったり。
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「車のショーでもレースでも、そして気球でも、何百万人が見ることを考えればすごくいい宣伝になるわけですよ」。そう言いながら、これまで使用した数々の改造車や気球の写真を見せてくれた。その目はまるで少年のように輝いているのが印象的だった。
「ビジネスはお金だけ考えていてもつまらない。自分が好きじゃなきゃできないのを考えるとゲームの要素が強いから、遊び心を持ってやらないとね」と彼。他にも、75年にボクシングのモハメド・アリ選手を日本に招聘したり、顧客向けに日本ツアーを企画したりもしている。このようなことからも、彼がビジネスをうまく趣味と絡めて楽しんでいる様子が窺える。徹底的に好きなことに没頭する、男のロマンとも言うべきそのスピリッツは、66歳を過ぎた今でも昔とまったく変わりないようだ。
「だからワイフ(妻)はね、僕のことをビジネスマンじゃなく、アーティストだと言いますよ。人よりアーティスト的な感覚があったから、よかったのかもしれないですね」。
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失敗から学んだこと
「ビジネスの失敗は数え切れないくらいありますよ。例えば『ペントハウス』みたいな男性誌を発刊したことがあります。グラビアだけじゃなくてビジネス向けの記事も載せ、一時は発行部数が毎月75万部を越えるに至ったけれど、やはり読者にはセックスの記事ばかりを求められてしまった。そのときに思ったのが、一時は成功してもそれを維持していくには、しっかりした組織体制が必要だということ、そして最初にまともなシステムとマニュアルをちゃんと作らないといけないということ。失敗からいろんなことを学んできましたよ」。
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アメリカで成功するには?
さて、ニューヨークにやって来る者なら誰しも一旗揚げたいという野望を持っているはず。ロッキー氏なりの“異国で成功するカギ”とは?
「僕の場合は、日本とアメリカの文化を使ってうまく橋渡しをしてきたのがよかったのではと思っています。まず郷に入っては郷に従えで、この国の風俗、習慣を学び、取り入れてきました。1つわかりやすい例を出すと、「春」の寿司をなぜおにぎりみたいにドデカくしたかというようなことです。日本の小さな寿司は、ここでは受け入れられないというのを長年の経験でわかっているからそうしているのです。僕は今後の中国の発展に益々注目しているけど、いきなりそこでビジネスをするのではなく、まず現地の人が何を欲しているかを考え、彼らの心をくすぐるテクニックを見つけることが先決だと思っています」とロッキー氏。
そんな彼も、渡米した頃はアメリカのことを何も知らなかったという。彼らが何を欲しているのかいつも考えてきたし、それは今でも変わらない。そして新しいアイデアというものは、身近な物や出来事を通して湧き出るものなのだとか。
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「ちょっと目を見開いてみると、アイデアはいろんな所に転がっています。アメリカ人はいつも変わったものを望んでいるから、彼らが好むアイデアをプラスするだけで実現、成功するものはたくさんあると思いますよ。何かを始めるときは人もお金もかかるけど、今は投資家やベンチャー・キャピタルなどを利用し、ドカンと一気に行くこともできる時代。要はアイデア次第ですよ。紅花の場合は一店舗ずつ拡張し、小さい階段を登って40年もかかっちゃったけどね」。
【2005年7月】
(取材・写真/安部春見 Kasumi Abe)
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| 【略 歴】 |
1938年生まれ。
中学時代は陸上競技の中距離ランナー、高校時代はレスリングで活躍。 |
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1959年慶応義塾大学政治学部在学中に、レスリングの日本選抜チームに選ばれ初渡米。その後学生として、アメリカ生活をスタート。 |
1962年から3年間、レスリングの全米選手権を獲得。
同年、ニューヨーク・ハーレム地区で、屋台のアイスクリーム屋をスタート。 |
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1975年 バック ギャモン全米チャンピオンに。 |
1980年 パワーボートレースで世界大会2位に。 |
1982年 気球で太平洋横断に成功、世界記録を樹立。
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2000年 寿司レストラン「春」、ジャパニーズフュージョン・レストラン「RA(ラ)」「道楽(DORAKU)」を買収。「春」はニューヨークに6店、フィアデルフィアに1店、「RA」はアリゾナに8店、「道楽」はマイアミに1店と、着々と店舗拡張中。
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