
「脱サラ指揮者」 彼は自らをこう呼んでいる。ニューヨーク・シティ・オペラ(以下NYCO)を中心に活躍中の日本人オペラ指揮者・山田敦。その代名詞の通り、彼のバックグランドはなかなか興味深い。日本で有名大学を卒業し、大企業でビジネスマンとして活躍。地位も名誉も手に何の不自由もなかったはずのエリートサラリーマンが、すべてを捨ててニューヨークに渡り、指揮者としてオペラの舞台に立とうとは、当時を知る者が一体どれほど予想できたことだろうか。彼の歴史を紐解くと「信念」を持つことがいかに大切か、そして強い信念さえあればどんな寄り道でもすべて未来のための糧になることがわかる。
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オペラの楽しさと同時に
プロの厳しさを知った大学時代 「人よりピアノや歌が飛びぬけて上手いというわけではなかったから、将来音楽の道に進もうなんてこれっぽっちも思っていませんでしたよ。だいたい当時は音大に行っている男や音楽家なんて、オタク系でなよなよしたようなのばかりだというイメージさえ持っていたしね(笑)」そう笑う彼が、今ではオーケストラの指揮を生業とし、しかも世界レベルの舞台で活動しているのはなんとも矛盾した話だ。
脱サラ指揮者・山田敦が合唱と出会ったのは高校生のとき。
「幼少の頃からピアノを何となくやってはいたけど、音楽を主体的に楽しいなと感じてやりはじめたのは高校からです。早稲田大学に入学したのも、実はグリークラブに入りたかったからなんですよ」。
早稲田大学グリークラブといえば、慶應、関学、同志社と並ぶ大学の有名男声合唱団で、4校合同合唱演奏会は世界的な規模を誇ることでも有名。
“教育理学科 音楽部”と言われるほど合唱団の活動に力を入れていた彼は、当時学生指揮者として指揮する機会にも恵まれた。そして山田敦を語る上で外せないキーパーソンとの出会いがあったのもその頃。その人物とは、日本のオペラ指揮者で山田が師匠と敬う故・福永陽一郎氏。
「当時の日本を代表するオペラ指揮者が早稲田で指揮をしていたのですから、飛んで挨拶に行きました。以後先生にはずいぶんとかわいがっていただきましたね。先生との出会いを通じて、オペラ制作の面白さ、喜びを知りました。僕にとっては“神様”のような存在でしたから、そのような方から卒業時に“学生指揮者で多少成功したからというのは、プロの指揮者になる理由にはならない”とプロの厳しさを戒められ、指揮者としての道は諦めて就職することに決めたのです」。
エリート街道まっしぐら。
でも心のどこかに音楽への未練があった。
日本アイ・ビー・エムに就職した彼はその営業成績もダントツで、エリート街道をまっしぐらに進んでいった。そんな中でも福永氏から指揮の手伝いを依頼される度に、音楽への未練を再確認していく日々だったという。
福永氏他界後、福永氏が指揮を修めていた藤沢男声合唱団から山田のもとに指揮の依頼が舞い込んできた。だが仕事が忙しく、手伝いたい気持ちはあるのにその時間が取れない。彼の中にジレンマが沸きはじめてきた就職5年目、彼はソニー生命に転職することを決意。その理由は「出社義務は月・木のみ、給料完全コミッション制」という、本格的に指揮活動に取り組みたいと考えていた彼には好都合、好待遇だったからだ。
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| 転職からNYCOとの出会いまで
二束のわらじを履く指揮者が仕事を作るために自らプロデュース
保険外交員と指揮者という二束のわらじを履いた彼は、水を得た魚のように積極的に指揮活動にのめり込んでいった。といっても片手間指揮者では、待っていても仕事は来ない。そこで彼が思い立ったのは自らコンサートを企画、プロデュースするということ。山田は友人らと「合唱アマチュアリズム振興会」を設立し、企画書作成から資金集め、そして舞台のプロデュースと、精力的に活動を展開していった。まずは阪神大震災被災者救済チャリティ・コンサートやホノルルで開催された戦後50周年日米親善平和祈念コンサートを敢行、さらには同振興会5周年の特別公演としてヴェルディの歌劇「椿姫」を企画し指揮。ソニー生命会長である盛田氏の紹介でNYCOから初のプリマドンナを招聘し、従来の枠を超えた本格オペラ公演として高い評価を得た。
このような地道な活動が実を結び、98年にはNYCO指揮者研修生として日本人で初めて採用。これが実質的には、彼にとってニューヨークでの最初の登竜門となったのだ。
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| 日本の古い音楽界へのアンチテーゼがニューヨークへと踏み出すきっかけに
彼が指揮者として最終的にニューヨークに目を向けた理由には、日本の音楽界の複雑な事情が絡んでいた。
「日本の音楽界は、幕末の江戸幕府より古い体質がまだ残っているんです。まず音大を卒業していないと正統な音楽家として扱ってもらえない節がある。それに加え、当時の僕は会社員ですから、どんなに良いステージを企画しても歌手からは嫌がらせを受けるなど、日本人音楽家のミュージシャン・シップの低さに辟易しました。今からの時代、変なプライドや自己満足だけでは、お客さんに聴きに来てもらえないことを、まだ多くの音楽家がわかっていないのです。僕はそんな日本の旧体制から抜け出し、世界のマーケットで認められる指揮者になりたくてニューヨークという土地を選びました。今では日本の音楽界、特にオペラ業界に貢献したいとか旧体制をどうにかしたいという気持ちはもうなくなってしまったけど、日本の聴衆に対する責任は僕にあると思うから、お客さんのためには人肌脱いで新しいものを作り、楽しんでいただける努力をし続けていきたいという気持ちは常に持っています」。
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社会人経験が、指揮者となった今でも活かされている
さて、夢を一度は諦めている彼。ビジネスマンという寄り道をして良かったと思うことはあるのだろうか?
「指揮者というのは野球で言えば監督みたいなもので、どうプレイしてもらおうかと考えるように、指揮者はミュージシャンにどう弾いてもらおうかと考えるわけですよ。ビジネスマン時代は、お客さんに商品をどう買ってもらおうかということを常に考えていたわけですが、そこで媚を売らずにいかに自分のプロデュースする方向へ導き出すか、つまり人を引き付ける術とかコミュニケーション能力、コーディネイト力がいかに大切かというのはどんな仕事も通じ合っていますよね。それと今はプロデューサーもしており、企画書の作成やお金の計算からプレゼンテーションなどもしなければなりません。そういう点でも、ビジネスマンとしての経験は大いに役立っていますね」。
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指揮者として、プロデューサーとして今後のこと
「指揮者としては今後も今もない、とにかく修行のみです。歴史上の人が守ってきた世界は、脱サラも音大出身も関係ないんです。これは天才のみが許される世界。そこに入っていくには、僕はどんなに努力しても足りない。じゃどうするか。知力と体力をもっと養うために、僕はいずれ全米だけを対象としているNYCOを一旦出て、世界をターゲットにしたヨーロッパへ出ないといけないなと考えています。
プロデューサー山田敦としては、若いアジア人演奏家を対象としたプロデュースを考えています。今レコードを出しても全く売れない時代で、欧米のクラシック音楽業界が終焉に近づいています。新しいマーケットの開拓が叫ばれているのです。そこで今後期待ができるのは、中国をはじめとするアジア各国なんですね。ここニューヨークでアジア人演奏家を育て上げ、オーケストラを開き、アジアにおけるマーケット作りを今年から本格的に取り組んでいく予定でいます」。
【2006年1月】
(取材・写真/安部かすみ Kasumi Abe)
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| 【略 歴】 |
| 早稲田大学教育学部理学科在学中にグリークラブに所属し、学生指揮者として活躍。 |
| 1987年、同校卒業。日本アイ・ビー・エム(株)入社。
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| 1992年、ソニー生命保険(株)に転職。藤沢男声合唱団指揮者となる
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| 1995年、阪神大震災被災者救済チャリティー・コンサート・シリーズ敢行。戦後50周年日米親善平和祈念コンサート(ハワイ)にて、現地のホノルル・シンフォニー・オーケストラ、オアフ・コーラル・ソサイエティーと共演し、ヴェルディ「レクイエム」を指揮。 |
| 1996年、日本人として初めて、同オーケストラ(97年シーズン)の首席客演指揮者に就任。
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| 1997年、ヴェルディの歌劇「椿姫」を企画し指揮、NYCOからプリマドンナ招聘。
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| 1998年、NYCO指揮者研究生に日本人として初めて採用され、このシーズンの音楽監督助手を務める。ソニー生命保険(株)退職。 |
| 1999−2000年
、NYCOナショナルツアーにおいて、「セヴィリヤの理髪師」の指揮者として全米デビュー。 |
| 2000年-2002年、NYCOの新演出を中心として、音楽監督助手・副指揮を務める。 |
| 2002年、NYCO本公演でデビュー。リンカーンセンター本公演での小澤征爾に次ぐ2人目の日本人指揮者として注目を浴びる。 |
| 2003年、NYCOの本公演にて、プッチーニ「蝶々夫人」の指揮者を務める。 |
| 2004-2005年、NYCOの本公演にてヴェルディ「椿姫」、プッチーニ「蝶々夫人」など計6公演を指揮、リンカーンセンターでの日本人指揮者1シーズン最多出演となる。
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| 2005年、愛知万博で行われたNYCO公演に米国文化代表として参加し、成功を収める。 |
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