4歳からピアノを始める

「母の話によると、2歳の時には、約50曲のレパートリーを持ち、故郷の京都から東京までの新幹線の中で、ずっと乗客に歌を披露していたらしいです(笑)」と田村さん。まさに音楽家になるために生まれてきたかのようだ。音楽好きの母親に手をひかれてヤマハ音楽教室に行ったのが3歳の時。娘の非凡な才能にすぐに気づいた母親は、4歳から娘をピアノのプライベート・レッスンに通わせる。学校の勉強や宿題には口を出さなかったが、ピアノ教育にだけは誰よりも厳しかったという。天性的才能とハードな日々のレッスンにより、彼女のピアノの腕はグングン上達し、国際派ピアニストを目指すようになっていく。
しかし、彼女には、ピアニストとして世界で活躍していく上での大きな障害があった。「手が小さすぎる」ことだ。物理的にひけない曲やつかめない和音もあり、行き詰まりを感じたのが17歳の頃。チェンバロへの転向を考慮していた矢先に出会ったのが、テレビで放映されていた「イタリア歌劇団のオペラ」。これが田村さんの人生を大きく変えることとなった。
「テレビの前に釘付けになりましたね。ボイス、テクニック、芸術性…。全てにただ圧倒され、『これが本物のオペラなんだ』と、ものすごい衝撃を受けました」
その後、オペラを次々に聴き、学ぶにつれ、オペラの奥深さに感銘を受け、田村さんはオペラ歌手への道を模索し始める。
「オペラはまさに『総合芸術』です。パフォーマーの歌声や演技、オーケストラの演奏はもちろん、バレエ、合唱、オペラハウスの建築、ホールの音響設計、舞台装置、衣装、メイク、原作のストーリー性、台本作家の芸術性やドラマ性など、あらゆるエレメントが織り交ざっている。すべてが一体となり、観客の五感を刺激していく。まさに究極のアートですね」
オペラ歌手への転身
そもそも歌手としての素質も才能もあり、音楽の基礎とスキルを携える田村さんにとって、オペラへの転向は比較的スムーズだったという。音大でテクニックを磨き、彼女の新しいオペラ人生がスタート。日本国内である程度の勉強を終えたら、次に目指すのは世界だ。オペラといえば、やはりイタリア。芸大卒業に合わせて、語学を含め、イタリアへの留学準備を進めていた。
しかし、実際の留学先は「ニューヨーク」へと変わることになる。
プラシド・ドミンゴ氏主催の国際オペラ・コンクール「オペラリア」で最年少で入賞した時に、ドミンゴ氏から、「今、一番優れた教育をしているのはアメリカだよ。NYに行ってみたらどうだろう?」とアドバイスを受けたことが大きな理由になったのだという。
「国際的な歌手になるためには、英語も必要だし、米国で勉強した人達の演技やテクニックにも共感しました。だから、まずは米国で勝負してみようと決意したのです」
そして、1998年、単身ニューヨークへ。すぐにアマートオペラの「ラ・ボエーム」のムゼッタ役を得て、ニューヨークの大学院も首席で卒業。皆から羨望され、「成功」という階段を着々と駆け上る田村さん。確固たる自信と、未来への夢と希望に溢れていた。
挫折と絶望の日々

しかし、大学院卒業後の2年間で、抱いていた世界への大志や自信が、ガラガラと音を立てて崩れていくことになる。
オペラで役をつかむには、規模の大きさに関わらず、オーディションに受からなければならない。田村さんは、一つ一つのオーディションに最善の準備を整え、全身全霊で臨んだ。しかし、全く採用されない。2年間を通じて、沢山のオーディションを受けたという。しかし、彼女を採用してくれるところは皆無だった。審査員に「君の歌は、一番素晴らしかった。しかし採用はできない」と断られたことも少なくなかったという。
数々のコンペティションに勝ち抜き、誰もが認める絶対的な才能を持つ田村さんが、なぜ採用されないのか?
「オペラはイタリアの伝統芸術。古くからの伝統や文化を守るオペラ界は、保守的、排他的な部分があります。スポーツのように点数で実力が評価される世界ではない。『歌がうまい』だけでは選ばれない。アジア人という容姿や民族性、経験、マネージャーや永住権の有無、語学のハンディ、認知度など、『歌』という本質以外の様々な要素が絡んでくるのです」
日々勉強を続け、何度も何度もあきらめずにチャレンジしても、納得のできない理由で落とされる。オペラ界の絶対的な壁の厚さを実感し、悔しくて、それでもあきらめられず、絶望のふちに追い込まれる田村さん。「でも、日本に帰るのは嫌だった。何の達成もしないでこのまま帰国したら、自分がダメになってしまいそうで…」
あんなに好きだったオペラなのに、誰にも聴いてもらえない。仕事がないと収入もなく生活もできない。夢もプライドもズタズタにされ、生きがいを失い、心身ともにボロボロになっていったという。
そんな時に、人生を一転させるチャンスが巡ってくる。「世界3大テナーとの共演」という、夢のような舞台。こんなチャンスに恵まれる歌手は、世界でも一握りと言われている。1万五千人の観客の熱気と興奮の中で、オペラ界のスターである3人と共演したこの瞬間は、生涯忘れることのできない、至福のモーメントだったという。
「ありがとう神様!」と心底から感謝の気持ちが溢れ出てきた。絶対に歌はやめない、死ぬまで歌い続けようと、この時に心に決めた田村さん。「幼少時代から、人一倍の努力を、何十年にわたって積み重ねてきた。その努力を神様が見ていてくれたに違いない、と感激した瞬間でしたね」。
世界へ躍進
その後、ルーマニアの歌劇場でのヨーロッパデビューを皮切りに、ハンガリー、さらには本場イタリアでの公演も実現。チャンスの輪が次々と広がり、活躍の場が世界へとつながっていく。つらかったときの思い出が、心の中から波がひくように、スーッと消えていったという。
田村さんのサクセスの背景には、たゆまない努力はもちろん、「あきらめたくない」という強い意志と、「いつかは道は開かれるんだ」という信念と忍耐があったことは間違いない。しかし、彼女を突き動かす最大の原動力となったのは、「歌へのパッションと愛情」だったことは言うまでもない。「三度のご飯よりも歌が好きだった。いつもオペラのことを考えていた。オペラに心底ほれ込んだんです」と田村さん。
すでに国際オペラ歌手として活躍する田村さんだが、彼女の目標はまだまだ高い。
「こう歌いたい、という理想郷が自分の中にあり、そこに到達するために、今でも日々努力していますね。そこに少しでも近づかないとフラストレーションがたまる。もっと美しい声で歌いたい、もっと人々に感動を与えたい、もっと観衆を説得できる演技をしたい、という強い欲望があるのです」
舞台に立つ前には、かならず瞑想をするという。自己と静かに対話し、神経を集中させるのだ。
「歌手は巫女さんのようなものかもしれません。天や宇宙のエネルギーや波動を歌声を通して観客とシェアする。自分がどこで歌っているのかを忘れている瞬間があります。自分が天から歌わされているような感覚ですね。」
彼女の究極のゴールは「自己実現」。自分探しの旅を続けながら、全てを脱ぎ捨てて「無」になる。その瞬間に、自分が自分の中にある宇宙(神)と本当につながり、「幸福」を感じることができるのだと信じる。田村さんの場合は、そこに「歌」があるのだ。
自分らしい人生を生きる
米国で成功したい人へのアドバイスは?という問いに、田村さんはこう答える。
「『成功=お金を稼ぐ=名が広まる=輝かしい名誉』という資本主義的な価値観がありますよね。この価値観が、本当に自分にあてはまるのかを再考してみるのはいいことだと思います。米国で成功することが、あなたの人生にとって本当に大事なことなのか?それが、あなたらしい人生であり、幸せなことなのか?そして真に自分のやりたい事とは一体何なのか?一度スタート地点に立って、じっくり自己と対峙してみることが大切だと思います」
一方、日本人は、善良、素直、真面目な素晴らしい民族だからこそ、もっと自信を持って、胸を広げて、どんどん世界にアピールしていくべきだ、と彼女は強調する。
将来的には、音楽やアートなどを通じて自分を表現し、ポテンシャルを広げ、豊かな心を育てられるスクールを作ってみたいという田村さん。彼女の夢はグングン広がっていく。一方で、これからもずっと奇跡の歌声を聴かせ続けてほしい。パッションとエクスタシーにあふれる感動的な時間を与え続けてほしい、と願ってやまない。
【2007年9月】
(取材/文/写真 吉藤美智子) |