指揮者の真髄
そもそも指揮者の役割とは何なのか?
「『オーケストラをリードする指導的立場にいるカリスマ的な存在』というイメージを持つ方も多いと思いますが、『楽団が指揮者に忠実に従う』という形では、全体としての活気が生まれてきません」と大野氏。
本を読む時に、行間にある微妙なニュアンスをつかんでいくように、偉大な作曲家が生み出した楽譜の中にある色々な意味を、深く研究分析していく。そして、各パートを奏でるプロの演奏者に、「そのパートが、交響曲という全体像の中で存在する意味、リズム、音、役割を伝え、的確な指針を与えていくこと」が、指揮者の第一の使命だという。
第二の使命は、自己のパートを十分に認識した各奏者に、「さあ、どうぞ。自由に演奏して下さい!」と、「究極の自由」を与えてあげることだ。
「一人一人の音楽家が、本番で『忘我の境地に陥るような状況』を作り出すのが私の役目です。指揮者が演奏させているのではなく、その状況が奏者本人の内面からクリエイトされていく状況ですね。各奏者が、開放された崇高なスピリットで演奏できてはじめて、全体の音色が充実して美しい音楽となる。つまり、私はゴールとなる山の頂上を指差し、個人に自由を与える。すると、気がつかないうちに、全員がその頂点に辿りついている、という感覚です」と大野氏。
まさに音楽の奇跡を体現しているかのようだ。
第三の使命は、完璧に洗練され尽くした音を、聴衆と高いレベルでシェアしていくこと。
「オーケストラの呼吸と、聴衆の呼吸がピッタリと重なる瞬間があるのです。音楽家と聴衆の呼吸が、劇場の空間で一体化して大きな波動となっていく。音響が天高く屹立し、生きたものとして観客の心の中に響いていく。これが劇場の醍醐味ですね」と情熱的に語る大野氏。
魂をかけて、音楽と共に生きる彼の人生を、もっと知りたくなる。
指揮者への道のり
3歳の時から、ステレオから流れるクラシック音楽にあわせて、お箸を持って踊っていたという大野氏。4歳からピアノを習い始め、幼稚園の卒園文集の「将来の夢」には、「しきしゃになりたい」という文字が刻まれていたという。まるで指揮者になるために命を授かったかのようだ。初めて舞台で指揮棒を振ったのは、小学6年の時の器楽合奏クラブでの演奏会。
「教師が指揮するのが普通ですが、たまたま担当教師が転校し、僕に任されたのです。他の学校の生徒から、『キザなやつ』と冷やかされたのを覚えていますね(笑)」
ピアノを弾いていたころから、ショパンやリストのような「滑らかな音」よりも、管弦楽などの「重厚な音」に惹かれていたという大野氏。中学から、ピアノ以外の楽器や作曲の勉強もはじめ、高校2年の頃から指揮者の先生について、スコアの読み方などを含む「指揮法」を本格的に学び始める。一方、高校時代は音楽だけでなく、水泳、陸上、サッカーなどのスポーツクラブにも所属。「当時から、チームワーク重視型よりも、人を抜くスポーツが好きでした。でも、当時に体を作ったのは、指揮者という仕事をする上で貴重でしたね。3−4時間棒を振り続けるのは、かなりの体力を要しますので(笑)」
その後、指揮者を目指して、東京芸大の指揮科に入学。しかし、ここで「指揮科を卒業すれば指揮者になれるという世界ではない」という現実に直面することになる。「芸大に入ってくる楽器の学生は、入学時に、極めて完成度の高いテクニックを確立しています。反面、指揮者は、完全な未経験者として入学するわけですから」。理論や譜面の理解だけでは指揮者にはなれない。そこから、アンサンブルを組織したり、学生オーケストラに交渉するなど、自分自身で実際に指揮ができる機会を創出しなければならない。「指揮者になりたい」と強い意志はあるが、それが本当に可能なのかどうかはわからない。それを確かめるチャンスさえも与えられない大学時代。ハングリー精神はあるが、先の見えない悶々とした日々が過ぎていく。
オペラとの出会い、そしてミュンヘンへ
そんなある日、練習ピアニストとして出向いたオペラ劇場で、偶然指揮をする機会が与えられる。
「自分の振り下ろした棒に従って、プロの歌い手の歌声が一斉に和音として耳に入ってきた瞬間、大きなショックを受けました。その美しい歌の響きの洪水の中で恍惚とした記憶は今でも鮮明です」と大野氏。悩める学生時代に、何となく探り当てたものが、オペラだったといえようか。
その後、日本の指揮者コンクールでの受賞をきっかけに指揮する機会も次第に増えるが、大野氏は、オペラの指揮に関するノウハウを習得するためにミュンヘンへと旅立っていく。
80年代半ば当時のミュンヘンは、神のような伝説的な指揮者が活躍する、まさに黄金の時代であったという。そこで、大野青年は、かけがえのない体験をすることになった。
「圧倒的に才能のある指揮者たちが、作曲家や作品に対して、ものすごく謙虚に奉仕する姿に出会い、強いショックを受けました。自分がいかに貧弱な内面性しか持たず、自己中心主義で、器の小さい存在だったのか、を思い知らされました」と大野氏。少しずつ前進はしていたものの、まだ現実がつかめず、夢を追いながら悩んでいた時期のミュンヘンでの体験。「砂漠の中で渇望していた自分が、尊い黄金の水を見つけ、グーっと飲みほしたような状況。自分が生まれ変わったようでした」と当時を振り返る。
その後、いくつかの国際指揮者コンクールでの偉大な功績が認められ、クロアチアの「ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者」という夢のようなポジションを手にする。フルオーケストラを率いるプロの指揮者としてのデビュー。大野氏がまだ27歳の時だ。
民族紛争を生きる人々の中で実感した
インターナショナリズム
しかし、同ポジションでは、また違う試練が待ち受けていた。1991年を境に、セルビア、クロアチア、スロベニアなどが独立を目指すにつれ、ユーゴ紛争が始まったのだ。戦闘機が飛び立つ度に空襲警報が鳴り、民衆は地下の防空壕に避難する。練習が中断することも多く、日常生活に困難を極める時代に遭遇することになる。しかし、混沌した社会情勢下、演奏会場の中は常に満席。逆に、劇場内は普段よりも強烈なエネルギーがほとばしっていたのだという。「社会が混乱しているからこそ、観客一人一人が燃えるだけ燃える。拍手喝采が延々と続き、二度と来ないかもしれない夜を心底楽しんでいるかのようでした」
「人間は、人間自身の尊厳が危機にさらされた極限状況時にこそ、『人間であること』を自覚認識するために、音楽を聴きに来るのです。人間は他の動物とは違う感情や感性がある生き物なのだ、という事実を確信するために…」
「ユーゴ紛争は、民族間の争いでした。しかし、ザグレブのオーケストラには、セルビア人も、クロアチア人も、スロベニア人もいる。ロシアやドイツから音楽家を招くこともあるし、指揮者は日本人。つまり、「音楽を演奏している限りは、インターナショナリズムが息づいている」という事実を強く認識し、それを体現していることへの誇りを感じました」と大野氏は言葉を続ける。
音楽を演奏し、鑑賞している状態では、争いも、差別も、血もない。
この世界観が、大野氏の音楽家としての人生における礎になったのは言うまでもない。
現在、日本ではイジメや引きこもりなどの社会問題が深刻化しているが、音楽を通じて解決の糸口がつかめるはずだ、と大野氏は信じる。「偉大な音楽を聴くことで、心の窓がパッと開くことがある。心が開かれると、自分自身が見えてくる。そして、自分が見えてくると他者の存在を尊重することができる。音楽は、生きることへのインパルス(衝動、推進力)を与えるパワーを持つと思いますね」
指揮棒を振っているときは、自分の中に霊感を呼び起こすような状況にまで、自己を高めていくという。まさに大野氏だけに見える無限大の宇宙の中で、指揮棒を振り続けているのだろうか。
現在は、演奏会とは別に、自らピアノを弾きながら、何人かの歌手との協力を得て、子供や障害者の施設などで小さな演奏会を開いている大野氏。究極の夢は、「自分に関わる全ての演奏会を、お金とは関係のない次元で行うこと」だという。壮大なスケール感と、心温まる慈善心に満ちた素晴らしい夢だ。金銭的な事情などで実際に劇場には足を運べない大衆、心や体の病んだ人達にも、彼の表現する高い次元の音楽のパワーを感じてもらえる、そんなユートピアが実現する日が、一日も早く来てほしい。
【2007年10月】
(取材/文/写真 吉藤美智子) |